弁護士 浅野 由花子
夫と離婚について話し合い、子どものこともあるので数年後に離婚することにして、財産の分け方についても合意しました。その後も結婚生活を続けていましたが、いざ離婚という段階であらためて話し合ったところ、夫は「合意した財産の分け方にはやはり納得できない」と言い出しました。一度合意しておきながら、今さら納得できないという主張は到底許せません。夫は、あらかじめ交わした財産分与の合意に拘束されないのでしょうか。
離婚の話し合いがまとまり、財産の分け方まで決めたのに、土壇場で相手が離婚そのものを撤回したり、合意内容を覆そうとしたりするケースは少なくありません。今回は、離婚前に交わした財産分与の合意がどのような効力を持つのかを、「財産分与契約」と「夫婦財産契約」の違いにも触れながら、考えていきます。
結論としては、離婚前の財産分与の合意は、離婚することを前提とした合意です。そのため、離婚の合意自体が撤回され、離婚が成立しなかった場合には、財産分与の合意も黙示的に解約されたと判断される可能性があります。
一方で、離婚の意思が維持されたまま離婚に至る場合には、合意は原則として有効であり、「やはり納得できない」という一方的な心変わりだけで合意を覆すことはできません。
つまり、ポイントは「離婚の撤回があったのか」「合意がどのような内容・経緯で成立したのか」という点にあります。以下、裁判例を踏まえながら、順を追って整理していきましょう。
民法768条1項は、協議離婚をした者の一方が、相手方に対して財産の分与を請求できると定めています。財産分与には、婚姻中に夫婦が協力して形成した財産の清算(清算的要素)、離婚後の扶養(扶養的要素)、慰謝料的な要素があるとされますが、中心となるのは清算的要素です。
財産分与の対象は共有名義の財産に限られず、夫婦の一方の名義であっても、婚姻中に協力して形成・維持した財産であれば対象になり得ます。他方、婚姻前から持っていた財産や、婚姻中に相続・贈与で得た財産は「特有財産」として、原則として対象外です。
財産分与請求権は、離婚によって発生しますが、それ自体は「分与を求めることができる」という抽象的な権利にとどまります。具体的に何を・いくら・どのような方法で分けるかは、当事者の協議、または家庭裁判所の調停・審判によって決まります。この具体的な内容を当事者間で取り決めた合意が「財産分与契約」です。本記事では、財産分与について当事者間で成立した合意を「財産分与契約」または「財産分与の合意」と呼びます。
有効な財産分与契約が成立すると、その合意が優先し、あとから家庭裁判所に同じ財産分与を申し立てることはできなくなります。合意どおりの履行を求める場合は、通常の民事訴訟(地方裁判所または簡易裁判所)で請求することになります。
これに対し、調停で財産分与の合意が成立した場合には、調停調書が確定した審判と同一の効力を持つため(家事事件手続法268条1項)、訴訟を経ずに強制執行を申し立てることができます。また、金銭の支払について強制執行認諾文言付きの公正証書を作成しておけば、その公正証書に基づいて強制執行することができます。
なお、書面が存在するだけで直ちに財産分与契約の成立が認められるわけではありません。書面の体裁、作成時の状況、内容の相当性などを総合して判断され、念書があっても「財産分与を判断する際の一事情」にとどまるとされる場合もあります。
よく混同されるものに「夫婦財産契約」があります。こちらは、婚姻届を出す前に、夫婦の財産関係について民法の原則(法定財産制)と異なるルールを定める契約です(民法755条)。
民法の原則では、婚姻前から持っている財産や婚姻中に自分の名義で得た財産はその人の特有財産となり、どちらのものか明らかでない財産は共有と推定されます(民法762条)。
この点、夫婦財産契約では、たとえば婚姻前の財産を共有にする、婚姻後に取得する財産の帰属をあらかじめ決めておく、といった取り決めができます。
両者の主な違いは次のとおりです。
①時期
夫婦財産契約は婚姻届出前に締結し、婚姻届出後は原則として変更できません(民法758条1項)。財産分与契約は、離婚に伴う財産の清算について定めるものです。
②内容
夫婦財産契約は、婚姻中の財産の帰属や管理方法など「夫婦財産制そのもの」を定めます。財産分与契約は、離婚時に財産をどう清算するかを具体化するものです。
③第三者への効力
夫婦財産契約は、婚姻届出までに登記をしなければ、夫婦の承継人や第三者に対抗できません(民法756条)。
冒頭の例のように、婚姻後に離婚を見据えて財産の分け方を決めた合意は、夫婦財産契約ではなく、財産分与に関する合意として考えることになります。
協議離婚は、離婚届が受理されてはじめて効力が生じます(民法739条)。財産分与は離婚に伴うものですから、離婚前に交わした財産分与の合意は、通常、離婚を条件とする合意と理解されています。
離婚前の合意は分与の内容をあらかじめ確定させるものにとどまり、財産移転の法的効果は離婚成立によってはじめて発生する、という考え方です。実際、離婚届提出前に不動産の財産分与を合意していても、財産分与を原因とする所有権移転登記は、原則として離婚届受理後に行うものとされています。
したがって、合意書に「離婚届が受理されたときに財産分与を行う」など、離婚の成立を効力発生の条件とする定めがある場合には、離婚そのものが成立しなければ、その合意に基づく履行義務は発生しないことになります。もっとも、すべての合意がこのような条件付きの合意と解されるわけではありません。
相手が「納得できない」と言い出した場合、まず問題となるのは、当初の話し合いの結果が法的な拘束力を持つ合意として成立していたかどうかです。
東京地裁令和4年3月25日判決では、離婚協議の際、夫が妻にメールで、自宅不動産の価値を「仮に4000万円」として、その半額に扶養的財産分与400万円を加えた2400万円を分割で支払うことを提案しました。妻は「了解しました」と返信し、離婚後には夫が分割金の支払を始めていました。
しかし裁判所は、契約が成立するには当事者の意思の合致が「最終的かつ確定的なもの」であることが必要だとしました。
そのうえで、契約書の作成が予定されていたこと、不動産の価値が暫定的なもので売却時の精算方法も決まっていなかったこと、妻自身が後の公正証書案で増額の修正を加え、調停申立書でも「合意できなかった」としていたことなどから、財産分与契約の成立を否定しました。支払が行われていた点も、事実上の支払にすぎないと解する余地があるとされています。
このように、当事者が書面の作成を予定している場合には、その書面の作成をもって合意が確定すると考えるのが通常とされます。口頭やメールでの合意だけでは、合意の拘束力を主張できないことがあります。
反対に、書面が作成されていれば、後から内容を争っても合意の成立が否定されにくくなります。東京地裁平成30年3月26日判決では、入院中の夫が、弁護士と複数回面談して意向を確認しながら作成された離婚協議書に、妻の添え手による補助を受けて署名しました。
後に夫は協議書が偽造されたと主張しましたが、裁判所は、作成の経緯や、面会交流まで含む協議書の内容から、夫が内容を確認していないとは考えられないとして、財産分与の合意の成立を認めました。夫にとって経済的に不利な内容であっても、速やかな離婚を優先した結果として理解できれば不自然・不合理ではないとされています。
それでは、離婚が成立しない場合、財産分与の合意は効力を失うのでしょうか。離婚不成立の原因によって、結論が異なるのでしょうか。
この点について参考になるのが、東京地裁平成9年1月21日判決です。
この事件は、協議離婚と財産分与の合意が成立した翌日に妻が亡くなり、離婚が成立しなかったという事案でした。裁判所は、まず一般論として、財産分与契約は離婚を前提とするものであるから、離婚合意と財産分与契約の成立後に離婚の合意が撤回され、離婚が成立しなかった場合には、財産分与契約も黙示的に解約されたと認められると述べました。
そのうえで、この事件で離婚が成立しなかったのは、どちらかが離婚の意思を撤回したからではなく、妻の死亡によるものであるとして、財産分与契約が黙示的に解約されたとはいえないと判断しました。さらに、財産分与契約は離婚の合意とは別個独立のものであり、当事者が死亡しても相続人との間で履行が可能であるから、離婚が成立しなかった場合に常に財産分与契約を失効させなければならない必然性はない、としています。
この判決からは、「離婚しない」という撤回があれば財産分与の合意も失効する方向に働く一方、離婚が成立しなかったというだけで当然に合意が失効するわけではない、ということが読み取れます。
さらに、離婚協議書の作成後も同居を続けていた場合に、黙示的な解約が否定された例もあります。
東京地裁令和3年8月13日判決では、夫が財産分与を含む離婚協議書と離婚届に署名しました。しかし、離婚に反対する子どもたちに配慮して、離婚届の提出は見合わせられ、夫婦はその後も同居して、食事や家族旅行をともにしていました。約3か月後に妻が離婚届を提出したところ、夫は、夫婦関係が修復したことで財産分与契約は黙示的に解約されたと主張しました。
裁判所は、離婚合意が撤回されて離婚が成立しなかった場合には、財産分与契約も黙示的に解約されたと「認める余地はある」としました。しかし、食事や旅行、通常の夫婦らしいやり取りがあったことをもって夫婦関係が修復したとまではいえないとしました。そして、合意が明示的に撤回されないまま3か月ほどで離婚が成立していることから、黙示的な解約を否定し、協議書どおりの財産分与を命じています。
合意後に同居を続けていたという事実だけで、ただちに合意の効力が失われるわけではないということです。
冒頭の例のように、すぐには離婚せず、数年後の離婚を予定して合意したケースも考えてみましょう。
参考になるのが宮崎地裁昭和58年11月29日判決です。
この事件では、夫婦が、不動産の抵当権が消滅する18年後に離婚することを予定し、そのときの財産分与や慰謝料について公正証書を作成していました。妻側は公正証書の無効を主張しましたが、裁判所は、18年後という時期は一応の目安にすぎないとし、財産分与の内容が資産・負債を折半する妥当なものであること、別居後に双方が公正証書に定めた債務を履行していたことなどを踏まえ、財産分与の合意は有効であると判断しました。そして、既に協議が調っている以上、改めて裁判所に財産分与を求める申立ては利益がないとして却下しています。
また、判決は、協議離婚以外の離婚の場合にも、公正証書で定めた財産分与等の合意は効力を有するとしています。
このように、離婚の時期を先に設定していたとしても、離婚の意思が一貫して維持され、合意内容が相当で、合意に沿った行動がとられていたような場合には、合意の拘束力が認められる方向に働きます。もっとも、この事件は夫婦が別居していた事案であり、冒頭の例のように合意後も同居を続けていたケースとは事情が異なる点に注意が必要です。
財産分与の合意も法律行為ですので、錯誤がある場合には取消しを主張できる余地があります(民法95条)。
たとえば、不動産の財産分与について、分与する側が譲渡所得税が課税されることを知らず、課税されない前提で合意した場合に、錯誤が認められる余地があるとした判例があります(最高裁平成元年9月14日判決)。なお、この判例は錯誤を「無効」としていた改正前民法下のものであり、現行民法では取消しの対象となります。また、課税されないと考えていたという動機の錯誤の場合には、その事情が合意の基礎とされていることが表示されていたことが必要です(民法95条2項)。もっとも、この判例は、その表示は黙示的なものでもよいとしています。
先ほどの東京地裁令和3年判決では、夫が、自分の特有財産である自宅まで分与の対象としたことや、妻より取得財産が少なかったことに錯誤があったと主張し、妻にだまされたとも主張しました。
しかし裁判所は、夫婦間で特有財産を分与したり、一方が他方より多くの財産を取得したりする内容の合意をすることは可能であり、家庭裁判所の一般的な取扱いと異なる内容だからといって、当然に錯誤の問題が生じるものではないとしました。さらに、動機が表示されていなかったこと、夫が分与の対象となり得る財産を一切調査しておらず重大な過失があることも指摘し、錯誤と詐欺の主張をいずれも退けています。
なお、財産分与の合意が取り消されても離婚の効力自体には影響せず、改めて協議し、まとまらなければ家庭裁判所に財産分与調停・審判を申し立てることになります。
また、離婚後に事情が変わったとして、財産分与の合意の変更を求めることも容易ではありません。
東京高裁平成30年8月31日決定は、扶養的な財産分与であっても、定期金として合意した場合には民法880条を類推して変更する余地があるものの、一時金や分割金として合意した場合に、履行後の事情変更による変更を認めることは著しく法的安定性を欠き、許されないとしています。
従来は夫婦間の契約は婚姻中いつでも取り消せるとする規定(旧民法754条)がありましたが、婚姻が実質的に破綻している場合には取消しができないとされてきました。なお、この規定は令和6年の民法改正により削除されています(令和8年4月1日施行)。
その他、離婚の取消に関する解説ページもご覧ください。
冒頭の例では、まず離婚の合意が一度撤回されたといえるかどうかが大きな分かれ目になります。
合意後も「数年後には離婚する」という方針がお互いに維持され、そのための準備を進めていたのであれば、離婚の撤回はなく、財産分与の合意は有効に存続していると主張できる可能性があります。この場合、夫の「やはり納得できない」という心変わりだけでは、合意を覆す理由にはなりません。
東京地裁令和3年判決のように、合意後に同居を続け、家族として食事や旅行をしていたとしても、それだけで夫婦関係が修復したとは判断されないことがあります。ただし、同判決は合意から離婚まで約3か月の事案です。冒頭の例のように数年間婚姻生活を続けていた場合には、その間の夫婦関係の実態が、より詳しく検討されることになると考えられます。
他方で、合意後の結婚生活の中で夫婦関係が修復され、離婚の話自体がいったん白紙になっていたような事情があれば、東京地裁平成9年判決の考え方に照らして、当初の財産分与の合意も黙示的に解約されたと判断され、改めて財産分与の協議が必要になる可能性があります。
また、そもそも当初の合意が最終的かつ確定的なものとして成立していたかも問題となります(東京地裁令和4年判決)。実際には、合意書の文言(離婚を条件としているか、時期の定めがあるか)、公正証書にしているか、合意内容が妥当か、合意後の双方の言動や履行状況、財産状況の変化などを総合して判断されます。
このように、離婚前の財産分与の合意は、離婚を前提とした合意であるため、離婚が撤回されればその効力が失われる可能性があります。一方で、離婚の意思が維持されている限り、一方的な心変わりで簡単に覆せるものでもありません。
将来の紛争を防ぐためには、合意の際に、離婚の時期や条件、財産分与の具体的な内容を明確にし、公正証書などの形で残しておくことが大切です。また、合意後に相手から撤回や見直しを求められた場合には、合意の性質や経緯によって結論が大きく変わりますので、早めに弁護士にご相談ください。
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